丹後 天橋立のお土産・イベント・観光情報や地元の人しか知らない穴場スポットのご紹介!!スマートフォン片手に天橋立観光はいかが?|教えてその由来
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- 天橋立もすこしずつ日常が戻ってきました
- 日本の故郷、伊根に帰ろう!
- 感染症対策!!しっかり手洗い、うがいを!!
- 美味しいがいっぱいの天橋立へ!!
教えてその由来
- 天橋立って?
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京都府北部にある『天橋立』は、陸奥の『松島』・安芸の『宮島』とともに、日本三景とされている特別名勝のひとつです。江戸時代のはじめ、全国を行脚した儒学者・林春斎が「日本国事跡考」で"三処奇観"と記したのが『日本三景』のいわれの始まりで、『天橋立』は全長3.6km、幅20~170mの砂嘴(さし)で、大小約8000本もの松が茂っています。その形が「天への架け橋」のように見えることから『天橋立』の名が付きました。
今から約4000年前、世屋川をはじめとする丹後半島の東側の河川から流出した砂礫(されき)が海流により流され、野田川の流れからくる阿蘇海の海流とがぶつかったことにより、ほぼ真っ直ぐに砂礫が海中に堆積しできたものといわれています。まさに大自然の奇跡って感じですよね?
- 股のぞき
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股の間から天橋立を見ることを「股のぞき」とよんでいます。股のぞきで逆さにのぞくその景色は、海と空が逆になり、まさに天に架かる浮き橋のように見えます。ちなみに文殊側からは【昇竜観】、府中側からは【飛龍観】とよばれています。ぜひ股のぞき台の上から試してみて下さいね。
- 三人よれば文殊の知恵
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本堂の文殊菩薩を安置する文殊堂は、室町時代に創建されたお寺です。銅板葺きの宝形作り、また内陣の4本柱が当時の面影を残し、「切戸の文殊」として親しまれています。奈良の「安倍文殊」、山形の「亀岡文殊」と並んで日本三文殊の一つに数えられています。智恩寺の本堂はイザナギとイザナミ、文殊菩薩の三人で良い知恵を生み出したというエピソードから生まれた「三人よれば文殊の知恵」ということわざでも有名で、なんと写真の山門は黄金閣と称され宮津市指定文化財なんです。
- かさぼう
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2009年春イメージキャラクターに決定した傘松公園のキャラクター「かさぼう」。
天橋立の創造とともに生まれてきた妖精で、のんびり屋さんで癒し系のかわいいキャラクターです。
傘松公園には「かさぼう地蔵」があり、土・日曜日には公園内で着ぐるみ「かさぼう」に出会えるかも。私も負けてられませんねー!!
- 力石
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この石は、当地文殊に伝わる力石と呼ばれるもので、祭や集会の余興にこの石を持ち上げ、青年たちが力自慢を競ったものなのです。(石の重さ 大130Kg 中100Kg 小70Kg)
今では、当智恩寺に奉納され、この石に触ると不思議に力と知恵が授かると今に伝わっています。
- 元伊勢籠神社
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伊勢神宮に奉られる天照大神、豊受大神がこの地から伊勢に移されたという故事から元伊勢と呼ばれる古社です。
天の浮橋神話という神代の時代、天にいたイザナギノミコト(男神)が地上の籠神社の奥宮眞名井神社にいたイザナミノミコト(女神)のもとに通うために使っていた梯子が天橋立であったというお話で、現在は男と女を結ぶ良縁成就の地として伝えられています。女の子としてはちょっとドキドキしますね。
- 獅子崎稲荷神社
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獅子崎稲荷神社の赤い鳥居を登った上にあずま屋があり、そこから宮津湾を隔てて天橋立を見ることができます。
雪舟の水墨画・国宝「天橋立図」は、ここからの眺めを描写されたといわれているんです。
5月には地元の自治会が管理してるミツバツツジが咲き誇るのも見事ですよ。一見の価値ありです!!
- 与謝野町 椎の大木
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石田権現のスダジイが聳え立つ丘陵は、通称「権現さん」と呼ばれ、北東方向に開けた野田川の下流域の町並みや阿蘇海、そのさらに向こうに天橋立や冠島を望むことができます。
明治29年、当地を襲った大規模な洪水によって旧境内地の大半を失いましたが、この木はかろうじて断崖の上に残り、被害を止めたご神木として地元の住民の崇敬を集めたと言われています。
かつて、付近に集落があった頃の面影はなく、人里離れた静かな場所となり、木を取り巻く環境は大きく様変わりしても、京都の自然二百選に選ばれるなど、自然遺産の保護の象徴として、今も地元石田区で大切に守られています。
みんなに愛されてるんだね!!
ちなみに与謝野町指定文化財/天然記念物に指定されています。(昭和42年6月7日指定)
- 伊根町 伊根の舟屋
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丹後半島の東端にある伊根町では、船のガレージを舟屋と呼んでいます。周囲5キロメートルの湾に沿って230軒あまりの舟屋が立ち並ぶ風景は壮観で、全国的にも大変珍らしく、重要伝統的建造物群保存地区選定地でもあります。
舟屋は、母屋から道路を挟んで海際に建てられ、1階には船揚場、物置、作業場があり、出漁の準備、漁具の手入れ、魚干物の乾場や農産物の置き場等と幅広く活用されています。2階は生活の場、客室、民宿等に活用されています。
夏の終わりに訪れると、夕日と虫達の声でとても素敵です。
- 伊根町 丹後大仏
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丹後の山間にたたずむ大仏
明治時代、筒川地区の火事で焼けてしまった製糸工場を工場関係者らが復興させました。
しかし、大正時代従業員慰労のため東京見物に出かけた時スペイン風邪に見舞われ、帰郷後42名の方々が亡くなり、工場長はその殉職者たちを慰霊するため、当時青銅の大仏を建立しました。
太平洋戦争の頃、青銅の大仏さまは鉄類として供給され、昭和20年現在の石仏大仏として建立されました。
高さはなんと台座を入れると約4mもあるんです!大きいですね。
- 旧尾藤家住宅
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江戸時代末期文久3年(1863年)に建築された丹後ちりめん商家です。
白壁とちりめん格子、土塀の上にさりげなく据えられたガラス製の丸い街灯など、外観も独特の雰囲気を醸し出しており、ちりめん街道のシンボル的存在になっています。
明治・大正期には蔵や座敷など増改築が行われ、昭和3年には11代尾藤庄蔵が念願の洋館を大林組設計部長 今林彦太郎(甲子園球場の設計者)の助言を受け建築しました。
旧尾藤家住宅は関西北部の大型農家を基本として丹後ちりめん商家の要素を加え、さらに昭和初期の洋風住宅建築が付加されている貴重な建造物です。
その和と洋の世界が融合した建築が高く評価され、平成14年3月26日、京都府指定有形文化財に指定されました。
- 大江山鬼退治伝説
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大江山には3つの鬼退治伝説が残されていますよね。
一つは、『古事記』に記された、崇神天皇の弟の日子坐王(彦坐王)が土蜘蛛陸耳御笠(くぐみみのみかさ)を退治したという話。
二つめは聖徳太子の弟の麻呂子親王(当麻皇子)が英胡、軽足、土熊を討ったという話で、三つめが源頼光と頼光四天王が活躍したことで知られる、有名なあの酒呑童子伝説です。
(酒呑童子は日本三大悪妖怪として有名ですよね。)これは能の演目『大江山』(五番目物の鬼退治物)にもなっています。
これらの伝説にちなみ、大江山の山麓にあった廃鉱となった銅鉱山跡に1993年(平成5年)大江町(現在は福知山市の一部)によって日本の鬼の交流博物館が作られました。
- 重要文化財 旧三上家住宅
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旧三上家住宅は江戸時代に酒造業・廻船業・糸問屋等を営む、宮津城下有数の商家「元結屋(もっといや)三上家」の住宅でした。
外観は美しい白壁の造りで、座敷等は非常に質の高い贅を尽くしたものとなっています。
本家三上家・宇兵衛の次男・勘兵衛が安永5年(1776)に分家して、現在地に屋敷を構えたのに始まります。
天明3年(1783)2月に、付近一帯を焼亡させた「晒屋(さらしや)火事」により焼失しましたが、直ちに再建工事に着手し、早くも同年12月に主屋棟がほぼ完成したことが古文書等から判明しています。
平成元年に京都府指定有形文化財に指定され、平成15年には主屋をはじめとする8棟が、国の重要文化財に指定されました。また、平成12年には庭園が京都府指定名勝となっています。
- 細川ガラシヤ(ほそかわがらしや)
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丹後七姫伝説の内のひとり、細川ガラシヤは、戦国武将明智光秀の娘で、本名を玉と云います。
織田信長の勧めで細川藤孝の嫡男忠興の元へ嫁ぎ、幸せな日々を過ごしていましたが、実父明智光秀が主君織田信長を討った(本能寺の変)事で事態は一変、玉は幽閉されてしまいます。
幽閉先の京丹後市弥栄町味方野で彼女はキリスト教に触れ、後に信仰に救いを求めてガラシヤの洗礼名を授かります。
関ヶ原合戦前夜、東軍に荷担する武将の正室を人質に取ろうとした西軍の軍勢が大坂の細川屋敷を急襲した折、人質となることを恐れたガラシヤは屋敷に火を放ち、キリスト教の教えで自刃できないことから家老に胸を突かせて絶命しました。
享年三十八歳の若さでした。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ
(細川ガラシヤ 辞世の句)
- 徐福伝説
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徐福は、「始皇帝の求めている仙薬を求めてやってきたが、ここにある仙薬は、少なく、このままでは、秦に帰れない」として、漂着した伊根町の新井崎に住みつくようになりました。
徐福の求めた仙薬は、「九節しょうぶ」と「黒茎のよもぎ」 であったといわれています。
- 与謝野町 ちりめん街道
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京都府北部・与謝野町加悦の、通称「ちりめん街道」と呼ばれるこの場所は、江戸から明治・大正・昭和初期にかけて、高級織物「丹後ちりめん」が隆盛を極めた場所です。平成十七年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されたこの街道には、ちりめん産業により町を近代化した建造物たちが、今も静かに佇んでいます。
そこは明治・大正・昭和と、それぞれの時代の建築がコンパクトに集約された町。街道は今や住民たちの生活の場ですが、多くの貴重な建造物が今でも住宅として利用されているのです。素敵な街並みが私たちを時間旅行へいざないます。
- 丹後ちりめん
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丹後ちりめん(たんごちりめん)は、京都府北部の丹後地方で生産される高級絹織物のことを言います。
丹後地方の地場産業であり、主な産地は京丹後市、宮津市、与謝郡与謝野町です。
丹後地方は日本国内の約1/3の絹を消費する日本最大の絹織物産地なんですね。
白生地のまま京都市・室町の問屋に出荷されることが多く、丹後外で染色や縫製がなされて製品となります。
- 与謝野町 大内峠一字観公園
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展望デッキからは若狭湾が一望でき、まさしく天まで続く橋のように天橋立が横一文字に眺められる大内峠一字観公園。大内峠には、素晴らしい天橋立の姿を望むことができる場所がいくつもあり、丹後天橋立大江山国定公園に指定されています。また、松尾芭蕉や与謝蕪村、与謝野寛・晶子など古くから多くの歌人に愛され、風光明媚な地に心うたれた、多くの歌碑、句碑が残っています。
- 小式部内侍
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大江(おほえ)山 いく野の道の 遠(とほ)ければまだふみもみず 天の橋立
橘道貞(たちばなのみちさだ)の娘で、母親は和泉式部(「和泉式部日記」で有名。百人一首56番に収載)。一条天皇の中宮彰子(しょうし)に仕え、幼少時から才気を謳われ、この歌をめぐる定頼とのエピソードは非常に有名で、多くの説話集に収められています。若くして逝去しました。私も憧れの女性です。
- 浦嶋神社(宇良神社うらじんじゃ)浦島太郎伝説
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日本人の誰もが知っている浦島伝説「うらしまたろう」は有名な昔話ですが、丹後・伊根町には、最も起源が古いといわれる日本最古の浦嶋伝説が伝わっています。その伝説にまつわる名高い神社が浦嶋神社です。
この神社は、丹後の名族であった浦嶋一族の業績をたたえて創られたといわれ、同社には、玉手箱・浦嶋縁起絵巻など宝物がたくさん納められています。
伊根の伝説では、浦嶋子(うらのしまこ=浦島太郎)が、乙姫の化身である五色の大亀を釣り上げ、常世の国に誘われていくストーリー。ここに登場する「浦嶋子(うらのしまこ)」を筒川大明神としてまつっているのが「浦嶋神社」です。
- 丹後・弓木城
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別名/稲富城、一色城
築城年代は定かではないが稲富氏によって築かれたと云われています。 稲富氏ははじめ山田氏を称していたが、稲富保弓木城を居城としてから稲富氏を名乗るようになり、二代直時のときに丹後一色家の家臣となりました。稲富流鉄砲術で著名な稲富伊賀守直家(祐直/理斎)は稲富氏四代といいます。
天正6年(1578年)織田信長の部将明智光秀と細川藤孝による丹後侵攻で、翌天正7年に一色義道の居城である建部山城は落城し、義道は逃亡中に中山城で自刃しました。子の一色義定(義俊/義有/満信とも)は弓木城に籠もって織田軍に対抗、織田軍は攻めきれず和睦となります。この和睦により義定は細川藤孝の娘を娶り、弓木城を居城として二万石を領しました。
天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変で倒れると、一色義定に怪しい動きがあることを察した細川忠興は、宮津城に義定を招いて謀殺、弓木城にも兵を送りこれを攻め落としました。
- 安寿の里 もみじ公園
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国道沿いの石浦地区に安寿の里もみじ公園があります。森 鴎外の有名な安寿と厨子王の物語で有名な丹後由良。ストーリーは、無実の罪で築紫に流された父を追う途中、人買にだまされて、母は土佐へ、幼い姉弟は、この丹後由良の長者 山椒 太夫に売りとばされてしまう。魔の手から逃れようとした厨子王は、京にのぼり、安寿は弟を逃がしたことから、責められて、非業の最期を遂げるというちょっぴり悲しいお話。
- ふなやん
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伊根の舟屋の妖精ふなやんは、2011年に一般公募438点の中から選ばれた伊根町のマスコットキャラクターです。
得意の釣りで、伊根ぶりや丹後ぐじを釣っては、みんなに食べてもらうのが一番の幸せ、とのことです。
- まぼろしの 薦池大納言
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まぼろしの 薦池大納言は、京都府伊根町薦池村で古くから栽培されている小豆です。
特徴は、大粒、細長、煮崩しなくて香りが高いことです。
今後は伊根町の皆さまの協力により安定供給を目指しています。
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